安倍氏の銃撃や国葬儀のことには記事にはしないでおこうと思っていたのですが、あまりに下らない論調が多くてびっくりしているので、書くことにしました。
何にびっくりしているかというと、菅義偉前首相の友人代表としての弔辞の話題です。
「泣けた」「感動した」などといったコメントがメディアにたくさん流れています。
あの弔辞で感動できるって感受性豊かすぎませんかね。
首相の職務として読んだ岸田首相の弔辞と比較するなどという的外れなことまで・・・。
それに、首相在任中には、コロナ禍で苦しむ国民へのメッセージが求められていたのにできなかった前首相です。政治家として大事なところで口下手で、友人の葬儀で感動させてもしょうがないでしょう。そこらへんの一般人ならともかく、首相ですよ。
百歩譲って、国葬儀の会場や生中継で、厳かな雰囲気の中で聞いて流されるっていうのはあるかもしれません。でも、あとでニュースで見たり、ネットや新聞で文章として読むと、別に感動するような弔辞ではないと思いますけど。
改めて読んでみると、内容はこんな感じです。
- 若い人たちがたくさん献花に来ている。共に歩んできた者として嬉しい。
- 北朝鮮関連で会いたいと言ってきた。このとき、いつか総理になる人だと確信した。
- 二回目の自民党総裁選出馬を説得した(いわゆる「焼き鳥屋エピソード」)。このことを、菅義偉生涯最大の達成として、いつまでも、誇らしく思う。
- 功績の紹介
- 総理大臣官邸で共に過ごした7年8か月。本当に幸せだった。
- 山形有朋の歌(先立たれて悲しい趣旨)の紹介。
と、こんな感じです。基本的に、「自分語り」なんですよね。「自分が安倍氏を見出したんだ」っていうふうに感じるんですけど。
こんなんで「泣ける」なんて言ってる人は涙腺緩すぎませんか。雰囲気に飲まれておかしなことになっています。
はっきり言って、7月12日に芝増上寺で行われた家族葬での麻生太郎元首相の弔辞の方がよかったです。
麻生さんの弔辞は、
- 安倍氏のことは国民・世界が認めている
- 日本人として誇らしい
- 国家の損失
といったものです。最後の「正直申し上げて、私の弔辞を安倍先生に話して頂くつもりでした」との締めも、友人としての絆を感じました。